「命あるかぎり」という合唱曲がある。中学校の合唱コンクールなどでもよく歌われる曲だ。何となくいい曲だなと思っていたのだがよくよく歌詞を聞くと違和感を覚え、調べるともとになった詩の改変がマズいのではないか、と思ったという話。
とりあえず歌詞を引用させてもらう。
どうしてどうしてどうして君は
そんな悲しい瞳をしているの
どうしてどうしてどうして君は
「命なんかいらない」なんて
なぜそんな事言うんだろう
命は生きるための電池みたいな物だけど
無くしたら二度と戻れない
僕は生きてゆく 命ある限り
意味の無い人生なんて どこにもあるはずがない
僕は生きてゆく 命ある限り
意味の無い人生なんて どこにもあるはずがない
遥かな時を越え天から与えられたものだから
意味の無い人生なんて どこにもあるはずが無い
僕は生きてゆく この命ある限り
この電池が 切れるその時まで
この曲は若松歓氏が作詞作曲しているが、楽譜には「もとになった詩がある」旨が記載されている。その詩は、長野県立子ども病院で闘病生活を送る子どもたちによる詩画集『電池が切れるまでー子ども病院からのメッセージ』に収められているとのことだ。
そして調べると、もとの詩に辿り着いた。小学校四年生の子どもによる詩『命』。この詩についてはこちらのサイトが詳しい。
自筆の原文が掲載されているが、1998年2月にこれを書いた宮越由貴奈さんは、4ヶ月後の6月にわずか11歳で亡くなっているそうだ。
こちらから、原文の詩を引用させていただく。
命はとても大切だ人間が生きていくための電池みたいだ
でも電池はいつか切れる
命もいつかはなくなる
電池はすぐにとりかえられるけど
命はそう簡単にはとりかえられない
何年も何年も
月日がたってやっと
神様からあたえられるものだ
命がないと人間は生きられない
でも
「命なんかいらない。」
と言って
命をむだにする人もいる
まだたくさん命がつかえるのに
そんな人を見ると悲しくなる
命は休むことなく働いているのに
だから 私は命が疲れたと言うまで
せいいっぱい生きよう
何と素晴らしい詩だろうか、これを読んで納得した。合唱曲の歌詞が良くないのだ。合唱曲では原詩を大胆に改変しているが、それが詩への理解なく行われてしまっている。この詩に改変の余地はないと思うが…。
原詩は、命を電池に喩えるところから始まる。そして、その後で"命と電池がいかに違うのか"を語る。電池と違って簡単に取り替えられない命。神様から与えられた命。そんな命だから、「命なんかいらない」という人を見ると悲しくなる。私は命が疲れたと言うまで精一杯生きる、と。「命が疲れたと言うまで」という表現の美しさよ。
合唱曲では「意味のない人生なんて どこにもあるはずがない」という歌詞が足されており、最後は「僕は生きていく 命ある限り この電池が切れるその時まで」となる。
まず「命と電池」については、原詩は命を電池に喩えるところから出発して、実は命と電池が違うものであることを説明していく。それに対して合唱曲では、結びで命と電池を同化してしまうことに疑問をもつ。命と電池の違いを説明しないと、「命なんかいらない」への悲しみも、生きることへの決意も、その真意が伝わらない。
そして、「命なんかいらない」の使い方も全く違う。合唱曲のほうでは、冒頭でこれを歌った後、「命は生きるための電池みたいなものだけど」と続くが、なぜ逆にしてしまったのだろうか。
だいたい合唱曲のタイトルには「命あるかぎり」だが、なぜ原詩のタイトル「命」から変えてしまったのだろうか。原詩の最後には「命が疲れたと言うまで」とあるが、これに比べて「命あるかぎり」という言葉は"命=電池"という価値観に近い気がする。
合唱曲の作詞者は、「命は電池だ」と思っているのでは?
だから原詩の真意がわからなかったのではないだろうか。
*2024/3/3 曲のタイトルを「命ある限り」と表記していましたが正しくは「命あるかぎり」ですので修正しました。歌詞を批判しておきながらタイトルの誤表記を見逃ししたまま記事を公開してしまっていたこと大変申し訳ございません。