「花束を君に」と「真夏の通り雨」にみる演歌の文法

2016年、およそ6年間の人間活動を経た宇多田ヒカルの復帰作である「花束を君に」と「真夏の通り雨」。宇多田の母親を思わせるこの2曲は、とても「演歌的」な歌だ、と思っている。

 

そう思ったのは、それぞれタイトルを歌ってサビを締めくくるからだ。

「涙色の花束を君に〜♪」「降り止まぬ真夏の通り雨〜♪」

というところ、

「あなたと越えたい天城越え〜♪」みたいな、藤圭子で言うなら「夜が冷たい新宿の女〜♪」「六畳一間の面影平野〜♪」みたいな演歌のそれじゃないだろうか。

 

そもそも、この2曲はタイトルが日本語で、歌詞にも一切英語が出てこないという宇多田ヒカルにしては異色の作品である。それが、日本語での表現に徹底的に拘ったアルバム「Fantôme」に繋がっていく。

そんな「Fantôme」にも、わずかに日本語以外が出てくる箇所がある。一曲目の「道」のリフレインでは “You are every song” と歌う。まさにこの通り、藤圭子宇多田ヒカルの歌そのものと不可分な存在なのである。

 

そして、その母親の喪失を経た復帰作である「花束を君に/真夏の通り雨」は、母親が歌ってきた演歌に近い構造をとる。宇多田ヒカルはこれらの作品を通して、藤圭子、その凄みと真正面から対峙しようとしているのではないだろうか。(僕も藤圭子の歌のごく一部しか知らないけど