「私もそうだった」

僕はずっと「自分のことをみんなに話す」のが苦手だ。自分の弱みを見せるのもだし、嬉しさを素直に表現することにも苦手意識がある。些細なことを聞かれて、意味もなく少し嘘をついてしまったりすることが未だにある。(例えば、友達から「昨日飯行ってたけど女の子何人いたの?」と聞かれて、瞬発的に何故か少し違う人数を答えてしまった、みたいな)

この癖は良くないなと感じている。「自分を大きく見せようとしている」わけでは決してない(と思っている)のだけれど、あらゆる面での「自分の実態」を誰からも完全に把握されないように努めている節がある。YouTubeで何を見ているのか、みたいな質問にもあんまりちゃんと答えないし。

なんでこんな人に育ってしまったのだろうと考えることが時々ある。一つの大きな要因はセクシャリティという大きな秘密を抱えてきたからかな、と思っている。小中高と隠しながら(完全に隠れてたとも思わないけど)成長してきたので、人格形成「自分を隠して生きる」ことになってしまった感じはする。今となっては誰にも言わない訳ではないんだけど、基本的にクローゼットである以上変わらない部分は大きい。

 

こんなことを久しぶりに思ったのは、電車で宇多田ヒカルの「B & C」を聴いていたから。

バカにする人たちはきっと

ただ淋しいだけ

私もそうだった

電車で宇多田ヒカルを聴いてると(以前、移動中は音楽をできるだけ聴かないなどと豪語していたわたしだが、最近は宇多田ヒカルに頼りっぱなし)普段そこまで気に留めていなかった歌詞が突然光って見えることが偶にある。先日は「B & C」2番のこの歌詞でその現象に見舞われた。

以前からいい歌詞だな〜とは思ってたんだけれど、「私もそうだった」と言える関係が純粋に羨ましいなと思ってしまった。「B & C」はボニー&クライドになぞらえて相手への愛情を素直に歌っている歌詞だが、あまりに真っ直ぐで、僕もこの真っ直ぐさが欲しいな、と。

この曲の後半には「約束はしないで 未来に保証は無い方がいい」という非常に宇多田ヒカル的な歌詞も出てくるが、その前提にあるのはこの素直さなのだと痛感する。

 

いま僕が求めているのは何か、と考えると「自分の、みんなが知らない部分」を誰かに愛されることといえると思っている。それも「友達」ではない人に。その「誰か」とは恋人であり、自分でもあるのかな、とも思ったり。(この部分のBGM:「キレイな人 (Find Love)」

うーん、ちょっと宇多田ヒカルに毒されすぎてるかもしれないので考えるのは一旦この辺でやめておこう。