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Apple MusicのJ-POP NOW RADIOの宇多田ヒカル回、落合健太郎さんがヒカルに問うたことの中には、巷で拾ってきた宇多田論と思しきことも多かった。例えば「宇多田ヒカルは言葉の切り方が独特」(これは昔から言われてることだけど)、他にもマルセイユ辺りの歌詞「予約」には「ようやく」が掛かってるとか、その辺り。

こういう話を宇多田さんに直接訊く機会はあまりないのである意味貴重だった気がする。

 

言葉の切り方については、今までと変わらず「私のやり方が独特と言われても、意味がわからない」との回答だった。この旨は例えば2018年の座談会でも言っている。

私はデビューの時から言われてることなんだけど、最初に「Automatic」っていう歌が注目された時に、「日本語の使い方に特徴がある」とよく言われて、本当に意味が理解できなかったの。「七回目のベルで(な・なかいめの/べ・るで)」って、言葉の途中の一瞬に間が空くことへの評論があって、「?? だって音楽じゃん? 言葉?」ってなった。
 音節、という捉え方をしてるのかもね。オペラだって、言葉を音節としてメロディーにはめ込んでいくから、すごく無理やりな歌い方をするじゃない。楽器だったら音符って捉え方をするから、ここまでが一言とかないじゃん。そういう感覚なのよ。言葉に対して、ここが良い切れ目とか、ここが切っちゃいけないとか、ないもん。

宇多田ヒカル 小袋成彬 酒井一途 座談会

その理由としては、日本語は音節の区切りが多い分どこで区切っても大丈夫だというのも、この時と同じ答え。今回は、「Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー」を引き合いに出して、日本語と英語の比較もしていた。「マルセイユ辺り」では、"Maybe I'm afraid of love"を、"Maybe I'm a / fraid of~" と区切って歌っている。これは「切っている感じ」がするが、日本語は「な・なかいめの」のように歌っても「切っている感じ」はしないという。

単純に音節の数でいくと、afraid も a/fraid の2音節に分かれる単語だが、宇多田さんの感覚としては日本語の方が音節で区切った時に不自然でないということ、なんだろう。

 

そして「マルセイユ辺り」の終盤、「予約」に「ようやく」が掛かっていて、これはパンデミックの終息に向けた希望を投影しているという話。これどこかで読んだぞ?と思ったら、デジャヴの正体はこの記事。

最後、旅に出る――行先はオーシャンビューの部屋。ここで「オーシャンビュー」と「予約」でライムするあなたは、「予約」にダブルミーニングとして「ようやく」を設定し、長かったパンデミックの終わりをさりげなく演出します。ゴージャスともリッチとも異なる、優雅で豊かな新しい“贅沢”の概念は、長い長いストーリーによって幕を閉じ、私たちは自らの価値観を揺さぶられることになります。

宇多田ヒカル『BADモード』が提示した新しい価値観 - TOKION

これを書いているのは"つやちゃん"で、今年の夏にBillboard JAPANに掲載されたインタビューを担当しているライターさん。TOKIONのレビュー記事もなんだか凄いことが書いてあるな〜と思って読んだ(twitterで@hikki_staffがリツイートしていたので)覚えがある。

で、「予約」と「ようやく」のダブルミーニングを落合氏に指摘された宇多田さんは「ああっ、それは記事で見て気づいたんです!」と言っていた。ちゃんと読んでるんだな。